身延山西谷宿院 本地院本行坊

山門
▲ 山門

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本地院本行坊由来

 宗祖日蓮大聖人[しゅうそにちれんだいしょうにん]鎌倉弘教[ぐきょう](布教)時代、大町・小町の[つじ]に立って『法華[ほけ][きょう]』(妙法[みょうほう]蓮華経[れんげきょう])の説法[せっぽう]をされておりました。当時、鎌倉は比企ヶ谷[ひきがやつ]に住みし漢学者、比企[ひき]大学[だいがく]三郎[さぶろう]能本[よしもと]公は幕府の仕官[しかん]で、いつとはなしに日蓮大聖人の帰依者[きえしゃ]となっておりました。日蓮大聖人が『立正[りっしょう]安国[あんこく][ろん]』を執筆、幕府に諫言[かんげん]しようとし、その校訂[こうてい]を比企能本公に委嘱[いしょく]されました。比企能本公は『立正安国論』を読まれ、日蓮大聖人の才、傑出[けっしゅつ]に大いに驚き、益々[ますます]尊信の念を深くし、日蓮大聖人に御給仕[おきゅうじ]申し上げ、入信し弟子[でし]の礼を取られました。

帝釈堂(左側)と本堂(右側)
▲ 帝釈堂(左側)と本堂(右側)

 文永11(西暦1274)年、日蓮大聖人は比企能本公の両親の戒名[かいみょう]である「長興」・「妙本」を取って比企能本公の屋敷を日蓮宗最初の寺院とし、長興山[ちょうこうさん]妙本寺[みょうほんじ]と命名されました。又、比企能本公は本行院[ほんぎょういん]日学[にちがく]上人[しょうにん]の法号を授けられ、日蓮大聖人身延山九ヶ年間在山中、度々安否[たびたびあんぴ]を尋ねられ、止宿[ししゅく][いおり]造立[ぞうりゅう]されたのが、現在の本地院本行坊[ほんじいんほんぎょうぼう]旧蹟[きゅうせき]であります。


本堂内陣
▲ 本堂内陣
 弘安5(西暦1282)年の秋、日蓮大聖人、[やまい]になられ、御心配された日学上人は、[]の機に身延の山を出られ東下[とうか]されて名医にお[]せ下さいと[すす]められ、御供[おとも]をして武蔵国池上[むさしのくにいけがみ](現在の東京都大田区池上)の郷主[ごうしゅ]池上宗仲[いけがみむねなか]公の館(現在の日蓮宗大本山、池上本門寺)へと着かれました。時に日蓮大聖人、御寿[おんとし]六十一歳でした。日学上人の給仕奉公[きゅうじほうこう]法勲[ほうくん]は千歳に巧らず、爾来[じらい]、身延山参詣[さんけい]御信者[ごしんじゃ]信心増進[しんじんぞうしん]報恩感謝[ほうおんかんしゃ]の念修養[しゅうよう]の場として参籠[さんろう]御世話[おせわ]をする由縁[ゆえん]です。

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帝釈堂
▲ 帝釈堂
大帝釈天王

 本堂[となり]には大帝釈天王[だいたいしゃくてんのう]勧請[かんじょう]する帝釈堂があります。この御堂[みどう][まつ]られている大帝釈天王御尊像[ごそんぞう]は、日蓮大聖人御自[おんみずから]らが開眼[かいげん]し、比企[ひき]大学[だいがく]三郎[さぶろう]能本[よしもと]公こと本行院[ほんぎょういん]日学[にちがく]上人[しょうにん]に与えたものと伝えられております。


帝釈堂内陣
▲ 帝釈堂内陣

 この大帝釈天王御尊像は、[かつ]て身延山山頂の奥之院思親閣[おくのいんししんかく]に祀られておりましたが、[のち]に比企能本公開創の当院に遷座[せんざ]せられ現在に至っております。御開帳[おかいちょう](大帝釈天王御尊像の御前[おんまえ]にての御経)は随時[おこな]っておりますので、ご希望の方は当院にお申し付け下さい。


大帝釈天王御尊像
▲ 大帝釈天王御尊像

 大帝釈天王は元来、古代インドの神で、梵語[ぼんご](サンスクリット語)で「シャクラー・デーバーナーム・インドラ」(Śakrā‐Dēvānām Indra)、略して「インドラ」と言い、阿修羅[あしゅら](アスラ)と戦って勝利し、仏法[ぶっぽう]帰依[きえ]させた軍神として、又、雨水[あまみず]を地上に[もたら]し、大地を[うるお]豊穣[ほうじょう]の神として、古代インドのヴェーダ聖典等に登場します。「インドラ」とは、天主[てんしゅ]もしくは[みかど]と言う意味で、これに漢訳表記である「釈迦[しゃか]提婆[だいば]因陀羅[いんだら]」・「釈迦[しゃか]提婆[だいば]」等の頭文字である「釈」を組み合わせて、日本では、帝釈天王・帝釈天・天帝・天帝釈等と呼ばれております。


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琥珀明珠大菩薩
琥珀明珠大菩薩御尊像
▲ 琥珀明珠大菩薩御尊像

 [およ]そ三百年前、京の都は伏見宮[ふしみのみや]第九代邦房親王[くにふさしんのう]の第八王子が落飾[らくしょく](出家)し、身延山第二十六世法主[ほっす]智見院日暹上人[ちけんいんにっせんしょうにん]弟子[でし]となられた、八之宮[はちのみや]尊賀院[そんがいん]日廷上人[にっていしょうにん]は当地に常住坊[じょうじゅうぼう]を創立、琥珀明珠大菩薩[こはくみょうじゅだいぼさつ]勧請[かんじょう]し、国家の安全、身延山の安泰、法主猊下[ほっすげいか](日蓮宗総本山、身延山久遠寺[くおんじ]の住職)の御健勝[ごけんしょう]祈念[きねん]し、[]伏見宮家[ふしみのみやけ]御祈願所[ごきがんじょ]とされました。


琥珀稲荷堂
▲ 琥珀堂 (通称、琥珀稲荷)

 当時、近村には疫病[えきびょう]蔓延[まんえん]し、罹病[りびょう]した人の苦しみを救う為、日廷上人は日蓮大聖人直伝[じきでん]加持祈祷[かじきとう]と医術によって病者を助け、護符を作り与えた結果、霊験灼[れいげんあらた]かに、病者は平癒[へいゆ]し、多くの人達が救護されました。家毎[いえごと]に、[あかつき]を迎えた人達から日廷上人の高徳は、益々称[ますますたた][した]われました。


琥珀堂内
▲ 琥珀堂内

 寛永19(西暦1642)年、日廷上人は、身延山三門建立[こんりゅう]普請[ふしん]奉行[ぶぎょう]として造立[ぞうりゅう]に当たり、晩年は人皇[にんのう]第百八代後水尾天皇[ごみずのおてんのう][]され、京の都は妙覚寺[みょうかくじ](現在の日蓮宗本山・由緒寺院)の第二十五世貫首[かんじゅ](住職)として晋山[しんざん]され、貞享[じょうきょう]元(西暦1684)年9月9日、御寿[おんとし]七十六歳で遷化[せんげ]逝去[せいきょ])されました。爾来[じらい]、「琥珀明珠大菩薩」の名号[みょうごう]が贈られ今日[こんにち]に至っております。明治初年、常住坊は本行坊へ合併[がっぺい]され、跡地に琥珀堂が建立[こんりゅう]されました。


稲荷社 (琥珀堂境内)
▲ 稲荷社 (琥珀堂境内)

 法華経[ほけきょう]功徳[くどく]深甚[しんじん]であり、琥珀様の霊験[れいげん][あらた]かにして、琥珀様を一心に信奉[しんぽう]する人の夢枕[ゆめまくら]に立ち、多くの人々を琥珀堂へと導かれております。当琥珀堂におきましては、毎年3月22日に、例大祭が奉行[ぶぎょう]されております。